現代の聴衆にとって,正しくロッシーニの序曲を聴くことは,異常なほど難しい。それらは演劇的な文脈の中で乱暴にも歪められてきており,その文脈の中で認識され,楽団が演奏しやすいように歪められ,テレビコマーシャルのBGMとして用いさせられ,また他の表現媒体からの連想に縛られていた(『ローン・レンジャー』やスタンリー・キューブリックの映画『時計仕掛けのオレンジ』が自然と思い浮かぶ)。現代の演奏においてラジカルな再考を行う必要があるということでは,同時代のベートーヴェンの交響曲と同じであるのだが。
そういった再考は,楽譜そのものから始めねばならない。ほとんどのエディションは作曲家が書いたものとは,けしからぬほど矛盾していたのである。多くの場合,ロッシーニの自筆譜面の場所さえもが分からなかった。たとえば,『絹のはしご(1812)』の譜面はほんの数年前にストックホルムで発見された。19世紀後半からの楽器の追加は,低音部や打楽器を譜面に加えることになるが,さしたる思慮もなく認められた。ロッシーニ特有の記譜上の要素(たとえば,いわゆる「完結的な」クレッシェンドやディミヌエンド,スフォルツァンドで終わったり始まったりすること)も日常的に無視された。
ここ20年の間,ペサーロ・ロッシーニ財団は,ミラノ・カーサ・リコルディと協力して,クリティカル・エディションでこの作曲家の作品を利用可能にしたが,オリジナル・ソースに基づくものであった。このCDで演奏されるすべての音楽はこのエディションに基づいており,たいていは,ロッシーニ自身の自筆稿からなるものである。
時にこれらの自筆稿によって,この人物の喜ばしい視点が分かることもある。たとえばロッシーニは,『ブルスキーノ氏(1813)』への序曲のおしまいに,立派な“Laus Deo”ではなく,より刺激的な“Dio ti salvi L'Anima”(「神よあなたの魂を救い賜え」)を書いたのである。彼は第2ヴァイオリンに,弓でリズミカルに譜面台(実を言うと,ヴェネチア版の原典では、蝋燭立て!)を叩くことを求めたのだが,それにより大変な騒動になるであろうということを,果たして想像していたのだろうか?
『アルジェのイタリア女(1813)』や『セヴィリアの理髪師(1816)』への序曲のように自筆稿が残っていない場合,当時の楽譜を注意深く校合することにより,原典に近い再構成が可能となる。『セヴィリアの理髪師』については,ひとつ重要な疑問が残っている。つまり,ティンパニと打楽器のパートの正当性である。双方の立場には十分な主張があるが,この演奏には,打楽器のパートが含まれている。
ロッシーニの序曲を聴く最もよい場所がロッシーニの歌劇の始まりであるのは,論を待たない。作曲家は時々別の歌劇に同じ序曲を付けたとはいえ,民衆的な神話によって想像されるほど広汎に行われた慣行ではない。実際、ここで録音された序曲の内、たった1曲だけ『セヴィリアの理髪師』が、いったい別の歌劇の幕開きとなっていたのであった。それは、『パルミラのアウレリアーノ(1813)』のために書かれ、ロッシーニがかなりのオーケストレーションが加えて、『エリザベッタ(Elisabetta, Regina d'Inghilterra 1815)』に採用したのだった。
多くの序曲は、音響的にも動機上でも、その歌劇と直接結びつけられていた。『泥棒かささぎ(1817)』で頻発する軍楽的な節回し(突出した小太鼓)とその短調の主要主題(たいていは弦部のみ)との対比は、不公正な政治的圧力とその犠牲者(この場合は、若い献身的なメイドのニネッタとその父親)との対立を反映している。実際、序曲の内の多くの主題は、『泥棒かささぎ』の中の重大な瞬間に繰り返し現れる。『セミラーミデ(1823)』においても、主題は繰り返される。つまり、序曲の最初の、4つのホルンの注目すべきパッセージを伴うアンダンティーノは、第1場のフィナーレでも用いられるし、そこでは、全員が女王に対し忠誠を誓う。序曲の主要主題は、4分の4拍子から4分の3拍子に変わり、第2場のフィナーレの開始を告げる合唱となる。
『ウィリアム・テル(1829)』序曲の主題は、その歌劇の原典版と重ならない。しかしながらその序曲は、その歌劇の他の部分と同様に、スイスの有名な旋律に由来する動機が優勢なのである。さらに、各楽章の進行は、作品全体にとって本質的な演劇的進展を反映している。つまり、有名な5台のチェロのパッセージによる「あけぼの」(ロッシーニは、劇のカギとなる瞬間−林檎の場面でテルが息子に対して訴えかける“Sois immobile”−においても、独奏チェロにひかせている)や、「嵐」、「田園の情景」(すばらしいイングリッシュ・ホルンの独奏を伴う)、序曲を閉じる楽しい「行進曲」である。ロッシーニは、この歌劇の再演用に新しいフィナーレを書いた時、自らこの最終部の隠された意図に対しはっきりとした意味付与を行ったのである。つまり、彼の用いた言葉によると“Victoire et liberte”(「勝利と自由」)で締めくくられている。
しかしながら、ロッシーニの過去100年間めったに演奏されなかった歌劇の序曲でさえ演奏会において恒久的な位置を見い出すということは、メドレーではなく、純粋器楽曲として雄弁な証明となっている。
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